昭和43年3月16日 朝の御理解    (末永信太郎)   №43-043


 自己を肯定にしないでの生き方というのは、自己を否定するという生き方でも、さらさらないことを知らなければいけん。自己を肯定しないでの生き方。ね。では、どういう意味かと言うと、もちろん、これで済んだとは思いませんということなのですけれども、これで済んだとは思いませんということでも、そのことが正しい、また、本当なことでもあると確信すること。
 自分が今頂いておる信心。また、その確信が出けるところまでの信心を進めなきゃいけんのです。けれども、もっと本当なことがあるということなんだ。ね。いやあ、もう、私はつまりません、私はつまりませんと言うて、その、自分を否定したものではないんだ。ね。現在、私が頂いておるのは、これは本当なんである。けれども、もっと本当があるということ。ね。自己を肯定しないでの生き方っていうのは、そういう生き方。ね。だから、はあ、自分ぐらいなもんじゃ、おかげは頂けきらんです。
 自分ぐらいな信心じゃおかげ頂けきらん。こういうようなものでは、自分をいわゆる否定したもの、考え方では、決してないことを知らなきゃいけん。ね。小学校は小学校なり、中学校は中学校なり。ね。それぞれの信心において、現在、私が頂いておる信心がです。ね、おかげの実証の上においても、自分の心の中の上においても、有り難いものを頂いたり、おかげも、その有り難いものに伴うて、おかげを受けておるという実証がある。ね。だから、これは、本当なのである。
 ただし、絶対の本当ではないということ。まだ、本当の本当がある。いわゆる、真理を追究するということは、そのことなんである。自己を肯定しないでの生き方というのはね、そういうもの。ね。はあ、私ども見よると、信心も出けんモンじゃおかげ頂けきらんて。もう、そげんだったら、貴方おかげ頂き(よってしまいじゃないの?)。ね。
 だから、否定でもない、肯定でもないという事なんですね、自己を肯定しないでの生き方というものが。私は昨日は、お参り、あの、御祈念後に参って来る人達に、ね、自己を肯定しないでの生き方。最近はこのことをしきりに、毎日御理解に頂くから、このことを覚えなさいち。ね。そして、これは大変難しいことだから、それをじょじょに、この内容を分からせてもらうために、先ず、その言葉だけを覚えときなさいて。
 一つ、言うてごらんち、なかなか覚えんのですよね。自己を肯定しないでの生き方。これを一つ、いつも持っとかにゃいかんのです。ね。自分でです、自分の心に、こげなことじゃあ、おかげの頂けるはずはなかて。そういう信心じゃ、いよいよ、つまらんとですばい。ね。
 現在、私、現在なりについっぱいの本当のものを頂いているんだという信心にならなきゃならないということ。ね。それでも、なおかつ、これで済んだとは思いませんという事なんです。だから、もっと、より本当なものがあるとするなら、その本当なものへ、いつも自分の心というものが、ね、自分の信心というものが、その本当な方へすぐ移って行けれる信心。ね。いわゆる、自在な心。
 いつでも有り難い方へ、本当な、もっと本当な方へ変わって行けれる信心。ね。この、自己を肯定しないでの生き方ということについて、まあ、いろいろな角度から頂いたのですけど、皆さんも、これを一つ覚えとかんといかんとですよ。ね。皆さん、ここ何日か、私が言うておる、その内容のことについて、もう、しっかり覚えておることを、手帳なっとん控えとかにゃいかんとですよ。自分のものにして、なってしまわなければいけんとです。金光様の御信心なこれなんですから。ね。

 そして、私どもはです、少しでも本当なことにこちらがならせて頂く時に、ははあ、今までよりも、もっと本当なおかげがここに現われて来るというもんじゃなかにゃいかんとですよ。ね。昨夜、若先生が他の、まあ、要望もある。皆がそういう願いを持っておられる声もある。それで、親先生が四時の御祈念をなさるのですから、五時の御祈念は私にお許しを頂くようにというお話があった。私、ちょっと躊躇したんですね。せっかく、四時の御祈念をさせて頂いて、五時の御祈念も、またこちら、まあ、信心が貪欲なんですね。しかし、信心はいくら貪欲でも良いとですよ。信心は貪欲じゃなかにゃいけません。ね。
 だから私、そげん言うたって、せっかくお父さんの朝の御祈念を、それを横取りされるわけ。そのようなことを、私、神様にお届けさせて頂いたら、その瞬間に頂きますことがですね、あれは、あの、西洋の何か物語ですね。子供の頭の上にリンゴを乗せて、それを、親が弓で弾くという、何かお話がございますでしょうか。ね。向こうの方へ子供を立てておる。何か罪を犯したんですね、その人が。
 それで、その、まあ、残虐なその王様がですね、あれは、なかなか弓の名人ということであるが、自分の子供の上にあげたリンゴを見事に真っ二つに弓を通すことが出来るのであったら、お前の罪は許すと言うて、その王様が、それを見物されるという訳なんですね。
 本当に、言うなら酷な話しなんです。その場面を御神眼に頂きましたから、私はすぐ咄嗟に、うん、んなら、明日からアンタが五時の御祈念を頂いたらよかろうと言うて、まあ、今朝のいわば、合楽の信心のスタイルがまた、ちょっと変わったわけなんです。ね。
 はあ、御本部がこげんじゃけん、御本部の真似をしようといったようなものじゃなくて、もちろん、信心こそ、金光様の信心を真似でもして行かにゃならんのだけれども、形式のことは、そこのお広前、そこの教会の、私は、まあ、思いつきがあるなら、その思いつきで良いと、こう思う。この人達は、長い間、その、学院におりましたからでしたいね、その、まあ、金光様の御祈念が終わると、後は先唱の先生がお広前で、あの沢山な人達と一緒に御祈念をなさるというのが、御本部の仕来りなんです。
 ですから、自分もそこから御祈念しようとするから、それはいけない。やはり、(   )。いわゆる、御本部では、金光様のお祝詞の座に人どんが座っちゃ勿体無いというのがね、ああいう形式をとられるんでしょうけども、ここでは、そんなものじゃないから、やはり、祝詞座に着いてから。せっかく皆さんも、あの、先生の先唱に合わせて御祈念をしたいという、思うておるのだから、まあ、上でさせてもらえと、今朝、私は申しましたんですけれども。ね。
 若先生が朝の御祈念をさせて頂くということは、どういう事かと言うとですね、しかし、なかなか難しいぞ。皆の一生懸命、皆の御祈念をとりつかにゃ、取りまとめて神様へお届けをするのだから、難しいぞ。そりゃ承知しとりますと、こう言うわけ。ね。
 それでも、なおかつ私がです、ね、ここに、子供を殺すも生かすも、もう、私の信心だということ。そのくらい、真剣に子供が御祈念の座に着いて御祈念をするならです、私はちょうど、その弓をつがいてですね、その頭の上に乗っておるリンゴを射落とすほどの、私は自身がなからなければ、あそこの御祈念を渡されない。ね。私がひとつ間違えたら、だから、子供を生かすことも殺すことも、ここだ、という意味なんです。ね。なるほど、五時の御祈念を本人が申し出てすることになりゃ、これは、どうしてもこうしても、五時前に起床させてもらわなきゃ、起きらなければ出来ない。
 本人としては、大変な修行であると同時に、大変な信心の一つの進歩である。それを自分から願い出てのことである。いやあ、せっかく五時の御祈念、いやあ、五時の御祈念は子供に渡したくないと、まあ、咄嗟に思うたんですけれども、神様はそう言うて教えて下さる。ね。
 そこで、今日、私が皆さんに言うておることを、一つ分かって頂かにゃいかんのです。自己を肯定しないでの生き方、それは、自己を否定するのではない。肯定でもなからなければ、否定でもない。ね。これで済んだとは思えんけれども、これでも、本当なことなんだというところまで、お互いの信心が、確信を持った信心をさせてもらわなければ駄目だということ。
 けれども、より本当なことは、まあだ、無尽蔵というか、限りなくあることなんです、もっと本当なことということは。ね。ですから、もっと本当なことを教えてもらい、そこにヒントを得たならです、そこんところに、もう、スッと自在な心でです、自由自在な心でその信心に飛躍して行くというか、その信心の段階を上って行くという、この素直さというか、その、自由自在に使える心というか。それが、必要であるということ。同時に、その、少しでも本当なことにならせて頂くことによってです、ね、私が少しでも、今まで18年間続けてきた私の信心よりも、少し本当なことにならせて頂いたら、さっそく、子供が本当なことになって来たじゃないですか。これが、おかげの実証なんです。ね。
 起きれと言うても起きらん。朝の御祈念ぐらい出て来にゃと言うても出て来ん。それを、私がヤーヤー言うわけでもない。だんだん、本当なことから本当なことを求め続けて行きよる内に、子供も本当なことへ本当なことへとなって来た。ね。
 今度の四時の御祈念という、例えば、本当に金光様の御祈念にこちらも神習わせて頂こうという、本当(  )にならせて頂いたら、子供が本当なことになって来たじゃないですか。ね。自己を肯定しないでの生き方ということは、自己否定ではないということ。それ前に、それは、本当だと確信の持てれる信心を頂かなければいけないということです。
 自分が本当なことになろうということを、一つも考えてない人がある、石頭的信心。なるほど、しだごだで、やはりおかげを、しだごだでも、それはやっぱ、受けて来とるもんですから、それから一歩も前進しようとしない。ね。精進もしようとしない。その辺のところをですね、自由自在にさっさと、こう、あの、本当なことへ切り替えて行けれる、私は、信心がどうでも必要であると、こう思う。
 今日は、合楽教会の春期総会がございます。併せて、まるしょう育成会、委員会の発会式も併せてあるんでしょう。まあ、今日は一日、そういう意味合いで、またお引き寄せ、皆さん頂けなければなりません。もう、朝参りしとるけんで、ね。もう、そのようなことでは、おかげは受けられん。教会と共に歩み続けられなければ、本当な信心は、いわば、それこそ手がかりを掴むことが出けない。どこから手がかりを頂けるやら分からん。ね。もちろん、一月。
 ちょうど、大祭ひと月前の16日に総会がなっておりました。今年から、四回を通じての大祭が、どうしても親教会の都合で、18日になった。今まで馴染んできた16日というのが、ここで、ね、より私は、おかげの日である18日になったんだと、私は思う。決して、困ったことじゃない。ね。だから、それを本当におかげにして行かなきゃいけん。ただし、総会だけは、やはり16日。ね。
 その、約だいたいひと月前に総会をするのは、そのひと月後に仕えられるところの大祭を、いかに神様に喜んで頂くような大祭を仕えようかということなんです。ね。そんために、一つ、半年間つづけてきた信心のけいこというものをです、一つ、自分で自分の信心をテストしてみる、一月前に、大丈夫か、間違いないだろうか、このまま大祭に突入して行っても良いだろうかと、いわばひと月前に自分の信心を確かめて見える。そういう意味合い、ここの総会の意義は。ね。
 不思議なことです、沢山な人が集まりますとですね、一つの群集心理というのがある。ね。ある新興宗教なんかは、沢山な、それこそ、まあ、言うなら烏合の衆が集まっとってもです、ね、団体行動。とても、五人も十人も、(とても?とて?)を組んだような風にしてですね、その、お導きにまわる。ね。
 群集心理なんです。やれやれ、やれやれといったようなもんなんです。そして、自分な信心も何も、いわば、分かってはおっても、頂いてはいないのです、あの人達は。こげん言わにゃん、あげん言わにゃんと言うて、いうようなことを教えられておりますけれどもね、なら、貴方自身が助かってるんですか、貴方自身が毎日有り難い生活しておるのですかと言うと、全然、自分自身が有り難くない。
 けれども、群集心理というのは、そんなものなんだ。ね。群集心理のそういうものを掴んだ、いわば、宗教だと思うですね、そういう宗教がある、最近。ね。ほらあ、もう、勢い、盛んなんですよ、やはり。だから、あげな真似もせにゃならんと言うけれども、金光教の信心はあげな真似じゃいかんのですよ。ね。
 烏合の衆の集まりじゃ駄目です。百人おっても、その百人の者がぜんぜん力がなかったら、やっぱゼロですからね。そうでしょうが。千人おったって、だから、ゼロですよ。ね。けれども、一つずつの力を持っておる人が百人集まれば、百の力になるです。ね。
 ですから、問題はその力を持っておる人が集まらなければ駄目だということなん。ね。私はあの、今日その総会のことを神様にお届けさせてもらいよりましたらです、あの、お神輿担ぎていうのがあるでしょう。ね。そして、あの、わっしょい、わっしょいでお神輿を担ぎ上げておる、お祭りの時にあるでしょうが。ね。ああいうお祭りになったんじゃ駄目なんです。いわゆる、群集心理。皆がその、だから、わっしょい、わっしょいで、その、神様を担ぎ上げておるようなもの。だから、お祭りが済んだら、スーッとするだけ。
 本当に銘々がです、信心の喜びを、信心の力をです、ね、ここに集めて。そして、それが御大祭という形にならなければいけんのです。もう、御大祭にはお供えは、こげんとば、どこの地区はこげんと、どこの地区はこげんと。もう、それだけすりゃ、大祭は済むごと思うとる。そんなもんじゃない。ね。
 不思議に、例えば、なら、総会なら総会というような風に集まってです、ひと月の大祭をと言うて、ワーッとこう、起因をあげますとですね、何とはなしに、大祭がもう仕えられるようなですね、一つの雰囲気が生まれることは事実なんだ。ね。けれども、それがただ、群集心理を、ね、応用してからの御大祭なんかといったようなものではいけないて、お道の信心の御大祭は。ね。
 沢山な者が集まって、その、それに一つずつでも力を持ち集まっての、結集されたものが御大祭の形になって現われて来るというものでなかにゃいかんのですから。自分の力をいよいよ、総会なら総会に、一応、自分がどれほど信心を分からせて頂いておるか、どのくらい信心を頂いておるか。いわゆる、自在な心がどれほどに仕えておるか。
 自分を肯定しないでの生き方、と言うて否定ではない。現在の信心に確信を持った信心を、果たしてどれだけしておるか。ね。だんだん、信心をさせて頂いておりますとですね、なかなか、その演技派という、縁起じゃおかしいですけれど、ね、まあ、俳優が若い時から年寄りまでをずうっとやって行く役があるでしょうが。ほれは見事です、やっぱ役者ですから。けれども、信心をさせて頂いておっても、その役者が、もうウヨウヨしとる。総代でござい、幹部でござい、ということになって来るとですね。ね。
 それが、なら、自分自身がです、銘々がです、もう、何年の信心させて頂いて、こういう御用もさせて頂いておるという人自身がです、ね、ことに当たった場合です、ね、本当に自己を肯定しないでの生き方が出けておればです、神様、相済いませんと、例えば、(とかされれば?)、相済いませんということになって行くのであり、ね、おだてられても増長しない。それこそ、これで済んだとは思いませんというような信心がそこに現われて行くのでございますけれども、おだてられると増長する。
 何かにぶつかると、グラリしとる。ね。先日、青年教師の研修会がここであった時、その夜の御直会を、後残って、幹部の方だけで頂きよる時でした。お神酒が下がって、ちょっと、(こうだこ?)なっとった。秋永先生の奥さんが、高芝さんじゃったですか、何かこう、話し合いよる。ね。したら、途端にです、秋永先生の奥さんが言わっしゃった。私はそれは、後先のこと、話はよく知らないけれどもね、そういうようなね、虎の威を借った狐っちゃそげなこっですたいち言うてから、もう、(いりごん?)ぶっすりに言われた。
 私はそれを聞かせて頂いてから思うた。銘々がです、虎の威を借りておる狐じゃなかろうか。金光様のそれを、親先生のそれを着て、そして、自分が信心(がけにも?)出けておるような思い方をしておるような総代、幹部ではなかろうか。ね。
 いよいよの時に慌てる、いよいよん時に、ね、とにかく、浅ましい心を起こしておるといったような者だったらです、ね、いよいよん時に、例えば、昨日の御理解じゃないけれども、締められれば締められるほど、良い音色が出ておるとならば、これはほんなもんです。けれども、締められると、もう、青息吐息しよるようなものだったら、これはもう、自分は虎の威を借りておる狐であることを悟らせてもろうて。ね。
 本当の信心、本当の力を頂かせて頂くための方向へ、信心を向けなければいけませんです。ね。そういう虎の威を借りた、例えば、これは教師信者を問わずですけれども、親先生と言われりゃ、大先生と言われりゃ、もう、本当に大先生になったごたる気持ちで、そして、さあ、信者が何かというお届けに来りゃあ、もう、自分があがってしまうような先生が沢山、これは私を含めて。ね。そういう先生やら、信者やらが、たくさん、うようよしておる事はなかろうか、と。ね。
 教団全体の上においても、そういうことをお互いが反省しなければいけない。はあ、本当に秋永さんは素晴らしいことを言うてくれた。私はそん時思うた。ね。私どもがいつもです、本当に、本当のものを頂かせてもらう。ね。どういう場合であっても、自由自在に自分の心を有り難い方へ、元気な心へ向けられる信心。締められれば締められるほど、良い音色が出る鼓のような心の状態を願わせて頂いての信心。ね。
 そういう信心が、はたして、どれだけ出けておるかということを、今日の総会に、お互い一応確かめて。そして、欠げておるものであるならば、そこんところを一修行させてもらって、本当なものにして行く。言うなら、信心の思いの丈をそこに結集して。ね。五百人なら五百人、千人なら千人な者が御大祭を仕えるということになった時に、本当の御大祭が仕えられるのです。
 金光様のお祭りというのは、ね、お神輿担ぎのような、わっしょい、わっしょい的なお祭りであってはならないということ。ね。けれども、そういうような事がです、やはりある、金光様の御信心には。なぜって、信心もなく、なら、総会が総会に集まってです、さあ、(ひとつ今度の?)大祭、さあ、集まらにゃ、ワーワー言うとるばっかりの、いわば信心であったら、これは、その群集心理を掴んだことにはなろうけれども、それでは、銘々がおかげ頂かれんでしょう。大祭を境に次のおかげが受けられんでしょう。ね。
 大祭というのは、半年ごとに行われる大祭というのは、半年の試験の、言うなら、答案用紙を出すようなものだと、昔から言われております。ですから、その準備、その試験に向かうというものの、(   )であった、出来てなかった勉強を本気でさせて頂いて、おかげを頂いて行かなければならん。ね。
 そのようなこともです、ね、私が最近毎日言うておりますように、ね、自己を肯定しないでの、その生き方にならせて頂いておるとです、ね、もう絶対締められれば締められるほど良い音色が出るです。ね。(   )そうでしょうが、これで済んだとは思いませんと思うとるんじゃから。叩かれた時に、ちょっと、こんな、はあ、これは、ほんなことに進まにゃならんという事になって来るのじゃけん、誰を恨むこともなからなければ、誰にとやこう言うことはないでしょうが。ね。
 おかげで信心が一段進みましたという事になるでしょうが。ね。と言うて、なら、お互いがです、その前提としてです、自分の信心を否定するのじゃない、ここに、ある意味での確信が持てれる信心。いわゆる、これ、本当だと思い込めりゃ、(こぼして?)頂ける信心。その本当なこともです、しかし、限りなく本当の本当があるということをです、分からせて頂いての本当でなかなきゃならん。
 心の中に頂く喜びと、おかげの実証というものが伴うて行かなければならん。少し、ほんな少し、私が本当なことにならせて頂いたら、子供がさっそく、本当なことになって行きよるといったようなものがなからなきゃいけん。ね。そういう信心を、どうでも(体得させてもらいたい?)。
 昨日、朝の御理解を頂いて、皆さんが、もう、先生、最近の御理解は難しかち。ほれはあ、難しか、私も一生懸命、私は一生懸命のもので、私じゃ、もう、ほんなこと、まだ良う分かっとらん。ね。今日の、自己を肯定しての在り方という、肯定せずしての生き方ということがですね、今日、また違った角度から頂いたわけですよね皆さん。ですから、どうでも一つ、いよいよ、皆さん、これを覚えなきゃいけません。
 自己を肯定しないでの生き方。そういう生き方にならせられる事がです、教祖の神様の生きられ方なのである。ね。その、教祖の神様の生きられ方に神習わせて頂かなければね、金光様の信奉者とは言えん。ね。金光様の信心を頂いておるとは言えん。金光様の信心っちゃ、どげな信心ですか。私を見てください、私一家を見てくださいと言えるような信心にならなければ、金光様の信奉者とは言えん。ね。
 もう、私だんはおかげ頂っきらんけん、信者っちゃ言いやきらん。人にお導きも出けん、お話も出けん。というようにです、自分を否定してしまうような信心じゃ、これはもう、いよいよ、もう、下の下です。ね。どうぞ一つ、おかげを頂いて、いよいよ、自己を肯定しないでの生き方にならせて頂くおかげを頂かなければなりませんね。どうぞ。